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第31話 侍女の小さな嘘④

Auteur: 花柳響
last update Date de publication: 2026-05-31 06:00:39
 胸の前で組み合わせられていた彼女の指先が白く鬱血するほど強く握り込まれる。

 部屋の空気が、一瞬にしてピンと張り詰めた。

「……それは」

 千尋の声は、急激に水分を失い、乾いた擦過音のように響いた。

「私には、お答えできる立場にありません」

「千尋さん?」

「申し訳ございません。以前のお嬢様方のことについては……この屋敷では、誰も口にすることを許されておりませんので」

 早口でそう告げる彼女の目は、泳いでいた。

 私と視線を合わせまいと、床の絨毯の模様を必死に目で追っている。

 その反応だけで、十分だった。

 過去の花嫁たち。美津子が「心が弱かったから」と一言で片付けた女性たちは、確かにこの部屋で息をして、そして消えていった。

 千尋はその過程を――あるいはその結末を、知っているのだ。

 知っていて、美津子を、あるいはこの屋敷で長く続いてきた空気そのものを恐れて、口を閉ざしている。

 私はそれ以上、追及しなかった。

「ごめんなさい。困らせるつもりはなかったの」

 ゆっくりカップを持ち上げ、もう一口、ハーブティーを飲む。

「このお茶、冷める前に全部いただ
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  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第197話 春の先まで①

     匂いがない。  温度もない。  視界の果てまで、ただ果てしない白だけが無限に広がる空間。  私は自分の足の裏が何を捉えているのかもわからないまま、その完全な静寂の中に立っていた。  あの時と同じだ。  非常階段の冷たい手すりを乗り越え、風の轟音の後に全身を包み込んだ、あの生温かくひどく粘度の高い泥のような暗闇を抜けた先。  自分が誰なのか、なぜここにいるのかすら曖昧になる、意識の漂白。  だが、今の私はあの時とは違う。  私のみぞおちのあたりには、ドクン、ドクンと規則正しく血液を送り出す心臓の鼓動が、確かな重さを持って存在していた。  視界の少し先に、小さな影が浮かび上がった。  ゆらゆらと、ひどく頼りなく揺れる、皺だらけの赤い手。  声を持たず、自分の痛みを訴える言葉の代わりに、ただ不快なノイズとしての泣き声を上げるしかできなかった、あの短い二度目の生の肉体。  酸えたアルコールの匂いと、安い煙草の煙に塗れた部屋で。  誰の耳にも届かない悲鳴を上げながら、車のダッシュボードに頭を打ちつけて呆気なく消えた、あの名もなき赤ん坊。  私はゆっくり足を踏み出し、その頼りなく揺れる小さな赤い手に向かって、自分の右手を伸ばした。  指先が空中でそっと触れ合う。  温度はなかった。それでも、小さな指は消えずにそこにあった。 「……大丈夫よ」  私は白濁した空間に、自分自身の声帯を震わせた音を響かせた。  誰かに切り取られることも、ノイズとして消費されることもない、私だけの真っ直ぐな言葉。 「私は今、私の声で息をしているわ」  小さな赤い手が微かにピクリと動いた気がした。  非常階段の風と、赤ん坊の泣き声が、一度に胸へ戻ってきた。  その結果、言葉を持てない命の理不尽さを、骨の髄まで味わうことになった。  生まれた場所が違うだけで、声を持たないだけで、いとも簡単にゴミのように踏み潰されていく命があること。  その痛みを知っているからこそ、私は現世で、天野美津子が用意した「言葉を奪い、精神を殺す箱庭」の中で、決して自分の輪郭を手

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第1話 インクの匂いと、会議室の息苦しさ①

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  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第10話 僕を信じるな①

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  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第9話 生まれた場所だけが違った③

     けれど。 あの赤ん坊の身体で、身体の奥まで理解してしまったのだ。 言葉を持たないことの恐怖を。 生きたくても、生きられない命があることを。 声すら出せずに、ただ誰かの都合で踏み潰されていく命が、世界のどこかに確かにあることを。 なら、自分は。 今度こそ、誰の評価にも、どんな悪意の切り取りにも、自分の命を明け渡したりしない。 黙ってやり過ごすだけの生存戦略は、もう捨てる。 自分の足で、この冷たい現実の上に立ち、自分の肺で、望むだけの酸素を吸い込んでやる。 誰かに奪われた言葉の前後関係は、自分の手で必ず取り戻す。「……やる」 声は、微かに震えていた。 それでも、言葉だけ

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第8話 生まれた場所だけが違った②

     すぐに、排気ガスと人工的な芳香剤が入り混じった、軽自動車の狭い密室に閉じ込められる。 後部座席のシートに、無造作に置かれた。 小さな身体を固定するものは、何一つない。 エンジン音が耳元で唸り、車が乱暴に発進する。 カーブのたびに、身体が床に転がり落ちそうになり、短い手足を必死にばたつかせて、どこかへ縋り付こうともがいた。「マジで、産まなきゃよかった。金ばっかりかかって、夜も出歩けねえし」 運転席から、冷たい呟きが吐き捨てられる。 言葉を持てないというのは、こういうことなのか。 自分の意思を伝える手段がない命は、こんなにも簡単に「モノ」として扱われ、消費され、見捨てられていく

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